「小さな命の”今”を見せてくれてありがとう」の記事の続きです。
今回、”ちいちゃん”が私にくれた大きなレッスンがありました。
当初は記事で書いていたように、私は、”今、ここ”を楽しむと決めて、「たとえ、ちいちゃんがすぐに死んだとしても、私は泣かない」、そう決心していたのに。そして、そうできると思っていたのに。
しかし結果的に、私は今朝、いっぱい泣きました。ちいちゃんの身体をなでながら、名前を呼びながら。(T.T)
何故、そうなってしまったのでしょう?
何故、私が保っていたはずの強さが崩れてしまったのでしょう?
振り返ってみたら、気が付くことがあります。
最初は淡々と、「生き死ににはこだわらない」と決めていた私の客観性が、途中からどんどん「生への期待」にすり変わっていったのです。
「もしかしたら、ちいちゃん、生き延びるかもしれない!」、そう思ったときから。
私の気持ちはどんどん変化していきました。
ちいちゃんが大きくなったら、一緒に遊べるな~。そうしたら、どんなに楽しいかしら。手に乗ってくれたり、お外で遊んでも、家にまた帰ってきてくれるかしら。生き物が大好きなうちの息子もきっと喜ぶよね。可愛がってくれるよね。そうだ、息子の一人暮らしの友に、しばらくちいちゃんを貸してあげようか、なんて。次々に夢が膨らんで。
もうメチャクチャ、ちいちゃんが元気に育って家族と楽しく過ごす、そんな期待図で頭がいっぱいになってしまったのです。昨夜一晩のうちに。
その期待が、つまりは執着に変わってしまったんですね。「何とか、ちいちゃんを生かしておきたい」という。
そもそもは「生死は彼の魂に任せよう、じっちゃんの手に委ねよう」、そう決めていたのに。
いつのまにか、「絶対に生きて欲しい」「生かしておきたい」に、私の中で変わっていたのです。
だから、、それが叶わなかったときに、私は中心を外れて苦しくなり、悲しくなり、たくさん泣く羽目に陥ったのです。
何というレッスン。。
この体験からわかったこと。
他のもの(人でも動物でも)の魂の選択には、私は関与、介入、干渉できないということ。
生死も含めて、他の魂の選択には、私は関与できないんです。
ちいちゃんが生きるか死ぬかは彼が決めることで、私はただ単に、”今、ここ”にちいちゃんが居るという現実だけを楽しめばよかったのです。できる範囲で最善を尽くしている自分を認めていれば良かったのです。それなのについ、彼が生き抜いて私たちと楽しく過ごせるようになる、そういう未来まで期待してしまいました。彼の未来を、私が勝手に造ろうとしていた。
他の魂が選ぶ道は、私たちにはコントロールできない。
私たちにコントロールできるのは、自分自身が”今、ここ”で何を感じるか、だけなんです。
自分の未来すらも、実はコントロールできない。望むことはできても。
他の魂が選ぶ道に関しては、こうあれ、こうあってほしいと、こちらが勝手に望むことも(大抵はこちらの都合の良いように、こちらにとって嬉しいように望みますが)、コントロールになるんですね。
そして、それはできないこと。
この誤解って、いろんな人間関係に言えることだなあ、と思いました。「こうあって欲しい」と望むとき、大抵は自分に都合良く望んでいます。そして、無意識に相手をコントロールしよう、相手を変えようとしています。
それは時に、相手が進もうとする道を妨げることにもなります。
私の場合、とりわけ息子に対して言えることだなあ、と思いました。
もちろん、子どもや親しい人の生死に関して「どちらでもいいわ」なんて普段から達観できる人は居ないでしょうが、しかし、本来は、当然ながら生死ですら、本人の魂が決めてきていることなのです。たとえ、はたから見ていて、それがどんなに理不尽だったり、突然の出来事であっても、それも実は本人が決めてきていることなのです。
だから、私とその人との未来は予見できないに等しい。
だからこそ、その人と居る”今、ここ”を大切にするしかないんですね。将来への期待を手放して、”今、ここ”だけを楽しむ。後で悔いることがないように、そのときの最高最善を選ぶ。
そして、実はそうすることで、相手自体、相手の魂の選択を変えることはできなくても、二人がその後、何を体験するかというタイムラインを”今、ここ”から変えていくことはできるんですね。
よく言われる「自分の波動がリアリティを変えていく」とは、そういうことです。
他人を含めた未来を、自分の想像だけで創ることはできません。しかし、”今、ここ”の波動から無数に分かれているどのタイムラインを進むかは、その波動で決まっていく。どんな未来に続く道も、その入り口は”今、ここ”の波動に存在している。そして、そこにしか、存在していないのです。
そんなことを、ちいちゃんが教えてくれた気がします。
私へのレッスンでした。(やっぱりね~。(..;))
物理的に離れては住むようになったものの、まだまだ心理的に、息子に対するコントロール、期待を手放せない私へのレッスン。
相手は子どもとはいえ、すべては彼が選ぶ道なんだ、ということ。
一緒に居られる”今、ここ”、それしか私たちには存在しないんだ、ということ。
しかし、、ですよ。
話は、それで終わりではないの。
じっちゃんの宇宙はそれだけではありません。それだけではないのです。
それがわかった上で、その事実を認め、受け容れた上で、
それでも、
たとえ何があっても、どんなタイムラインに進もうとも、
何一つ失われるものは無い、ということ。
物質という形は取らなくなっても、そのものの、その人のエネルギーは消滅しない。
そもそもが、じっちゃんのエネルギーなのだから、すべてはじっちゃんの愛の宇宙の中を循環し続けるだけだ、、ということ。
すべては、私たちのすぐそばに在り続ける、ということ。
”ちいちゃん”の小さな命が、私に残していってくれたレッスンでした。
(それにしても、何という母の日のプレゼントだい?! (>o<))
レッスン3に続く。