チャレンジがやってきました。今日突然、思いがけないところから。
(ほんとはあまり書きたくない。まだ、私には痛みが残っていますが。(T.T) でも、今日はブログを書き続けたい気分です。)
テーマは、無条件の愛、無償の愛についてです。
先日、私はアシュタールさんと愛と恋について話し合い、無条件/無償の愛を議論しました。
今、書こうとしているのは、その後、一人で考えたことです。
ちょうどアシュタール通信No.28の中で、彼は、彼自身がどのように嫉妬を乗り越え、無条件/無償の愛の境地に至ったかという話をしてくれました。
その話を聞いた後、私は、「無条件/無償の愛って、私が息子に持っている愛のようなものだな」と思ったのです。つまり、親が子に持つ愛です。
私が息子を思い浮かべるとき、もちろん恋愛関係にあるわけではありませんから、私は「彼がどんな彼女を連れてきても、彼が何をしても、彼がどのような人間であっても、自分は彼を愛している」、そう確信していたのです。
ところがね、、、その自信はもろくも崩れました、、今日。(T.T)
息子が、レッスンを与えてくれました。
今日、彼が私に隠し事をし、嘘をついていたことが発覚したんです。ママは気に入らないだろうからと、彼はこそこそ隠れて、自分のやりたいことをやっていた。(まあ、大したことないと言えば大したことないのですが。私は嘘やだましが大嫌いなので、私にとっては大きな出来事でした。)
私は(きわめて単細胞・一本気なので(..;))、モーレツに怒りました。雌ライオンみたいに。ハハハ。私の信頼を裏切ったこと、私を信用してくれなかったことがとても腹立たしかった。
赤の他人にされることなら興味もあまりないので簡単に流せても、もっとも身近で、もっとも私が心をかけている人に裏切られるというのは、かなりのショックでした。
(あ~~、今から振り返れば、かなり大げさに受け止めてます。(..;))
私は30分ほどカッカッと怒り、息子にも怒りのメールを出した後、、何とかかんとかがんばって心を静め、冷静に状況を見る努力を始めました。
(この頃、おそらく人間椅子状態でアシュタールさんのエネルギーが入り始めたのだと思います。(..;))
そうしたら、「あなたにとって、無条件/無償の愛とは何ですか?」という言葉が、ふと浮かんできました。
あ、、と、思いました。
そこから、じわじわと、私がアシュタールさんに断言した「私は息子を、無条件/無償の愛で愛しています」と言ったフレーズが蘇ってきました。
そして、心の中で自問自答が始まりました。
「今、この状態で、無条件/無償の愛なの? 私? 無条件/無償の愛って、相手がどういう状態であっても愛するってことでしょ。息子が私の信頼を裏切った、それだけで赦せないと息巻いてる今の状態、無条件/無償の愛でも何でもないじゃない。」
「無条件/無償の愛って、相手が何をしたから、何をしないからには関係ないでしょ。その人が私に何をしてくれる、何をしてくれないにも関係ないでしょ。」
そう、無条件/無償の愛って、相手の行為には、まったく関係がないのです。
相手の存在そのもの、相手の存在それだけを愛するということは、相手の行為の内容はまったく問わないのです。また、相手と自分の関係もまったく問わないのです。
そこには、ただ相手しか存在しない。
無条件/無償の愛って、相手と自分の関係を超越したところにあり、「私は何があろうとなかろうと、その存在を愛する」という、相手が持つ条件には依らない、また、見返りも求めない、完全なるこちら側の自己完結の世界なのです。
そして、ただただ相手が幸せであることを願う、という。
だから、、極端に言えば、自分が差し出す手を、たとえ相手がムチで打ち返したとしても、、それでも、その人への愛は変わらないというのが無条件/無償の愛なのです。
う、うう、難しい。
「そんなことできるの?」、、そう思いますよね。
私もそう思いました。
でも、それは可能なんです。可能になるんです。
何によって? どうやって?
それは、相手への理解によって。
相手を理解できれば、ということです。
「なぜ、相手はそういうことをするのか、そういう態度を取るのか、そういう行動を取るのか」、その心を探ってみて、答えが見つかったら、です。
そして、その前提には、私が「あらゆる人が本来持っている美しい魂、創造主につながる愛のエネルギーの存在を、完全に信じている」必要があります。
本来、そういう光の存在である相手がなぜ今、そのような行動を取るのか、その理由がわかれば、相手を許容することも、愛し続けることも可能なのです。
例えば、相手がとても利己的な行動を取るとき、こちらのエネルギーを奪おうとするとき。
その人は一言で言えば、愛で満たされていない。じっちゃんとつながっていることを忘れている。自分の中に常にある愛に気付いていない状態なのです。
意識・無意識にかかわらず、真の自己愛が足りないとき、人は、他人からそれを奪ったりして、外からそれを持ってこようとします。
他にも、一言で言って、誰かが愛に欠けた行動を取るとき、根底には、その人が自分自身への愛と赦しができていないという理由があります。
だから、そういう人ほど、愛と光を注がれることが必要なんですね。
そのような人の心の状態がわかってくれば、その人を裁く必要も、排除する必要もないことがわかります。
その人は、今はただ方向性を見失っているだけ、魂が傷ついて癒しを必要としているだけだから、こちらからは光を送り続ければいい。
愛することをやめる必要はないのです。
ただし、もう1つ前提があります。
それは、自分自身がまず愛で満たされていること。
こちらの自分がしっかりとじっちゃんとつながって、たとえどれだけ愛を奪われてもじっちゃんからもらえるんだ、愛は無尽蔵に自分の中に沸いてくるんだ、それを知っていることが条件です。
と、、、そんな思いが沸いてきました。(アシュタールさんに導かれたかしら。。(^^ ))
私の息子にも、今日、そのような行動を取らなければならなかった何らかの心の理由があったのでしょう。
そして、それはもしかしたら、私との関わりの中で生じていたのかもしれません。私にも、原因の一端はあったのかも。
そして、私自身、大いなる愛に包まれて、絶対的な安心感にいつも身を委ねているでしょうか?
と、このようにたどってきて、私は今日、「赦すこと」の在り方に気付き、無条件/無償の愛の意味が少しわかったんですね。
相手がどんな人間であろうと。
自分に何をしようと。
どんな人の中にも存在する絶対的な神性と光を疑わなければ、いつの日にかその人自身が本当の自分を思い出すことを願いつつ、私たちは相手を赦し、愛し続けることができます。
(イエス様の「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で知らないのです。」という言葉が思い出されます。)
それが無条件/無償の愛なんだろうなあと、しみじみ思ったのでした。なかなか簡単には実践できませんけどね。
(ただ、勘違いしてはいけないのは、無条件/無償の愛は究極のゴールであっても、かといって私たちには誰かを助ける、引き上げる責任はないと言うことです。むしろ、その人の学びの邪魔をしてはいけないし、私たち自身もエネルギーを取られることに甘んじてはいけない。ドアマットになってはいけない。相手の権利を侵さないと同時に、自分自身を守ることも重要です。祝福を送りつつも、その場を離れなければいけないときもあります。)
とにかくかくにも、このような流れで、私は気持ちを落ち着かせ、今回の件に関して素直に「息子を赦そう」という気になったのでした。
そして、今でも「息子を愛している」という確認も。
相手が自分に何をしようと、自分にどんな思いをさせようと、何も問わずにただ相手の光を信じ、すべてを赦し、受け容れ、その存在を愛し、祝福を送り続ける。
アシュタールさんが「その状態に至ったときに初めて、自分の愛の大きさに気付いたのです」と、教えてくれましたが、まさにそうですね。
彼はまた、「そのための機会を与えてくれたイシュタルさんを誇りに思っています」とも、付け加えていましたが。ふふ。
そういう意味では、私も今日、息子に感謝です。
確かに、無条件/無償の愛に気付く機会を与えられたというのは、大きなギフトでした。
ということで、まだまだ道は遠いなあとは思いつつも、、今日は1つ、息子からレッスンをもらったのでした。
(アシュタールさんの? いや、マイケルの差し金か? (..;))