業務連絡: アシュタール・5月八ヶ岳ワークに参加される方へ。これから当日まで、連絡事項を何度かMeWeの専用コミュニティに載せる予定です。常時、ご確認下さいね。
いったいこれはどういう流れなのでしょうか? 私が引き寄せたの? (^_^)
今日の午後、コーちゃんと遊ぼうと思って庭に出たら、ぽかぽか陽の当たる芝生の上に、鳥の雛が落っこちているではありませんか!
恐る恐る近づくと、まだ毛も生えそろわない、目も開かない、生まれて2,3日といった雛です。生きてはいるけれど。
何処かに親が居るのかと思って見回しましたが、気配がありません。鳴き騒いでいる声も聞こえません。捨てられたのかな。さらわれていく途中で落っことされたのかな。庭から見えるところの、わが家の屋根と屋根の重なる隙間に、毎年、雀が巣を作るのですが、そこの子でしょうか。
でも、この状態では、親も何もできないでしょう。羽も生えていない、目も開いていないのだから。歩くことすらできない。すぐに、カラスの格好の餌となります。なので、とりあえず保護することにしました。
人の匂いを付けないよう、また保温も考えて、ビニールでくるむように抱き上げて。
さて、どうしたものか、困ってしまいました。
こんな小さな雛を育てるのは無謀過ぎます。バディも反対。「自然の摂理に従って、そのままにしておくのがいいんだよ」と言います。
が、見殺しにするのはねえ、、私にはちょっとできません。
もちろん、私にも、これが自然界の在り方で、すべてはじっちゃんの愛の中で起こっていることはわかっているのですが、このまま見過ごすというのは、私にはできません。
左手で包んで温めながら、右手でパソコンを検索し、生まれたての雛の対処法を探しました。
どうやら生き延びる確率は低いし、育てるにしても、給餌の中身やら間隔やらで、忙しい私の手には負えなさそうな気がしてきます。
おそらく昔の私なら、かなり慌てた末、獣医なり動物保護センターなりを調べて大急ぎで連れて行ったでしょう。でも、今の私は、じっちゃんのワンネスの世界に生きているので、”死”というもの、”死を見守る”ということに恐怖も抵抗もありません。
動く力も無いくらいに弱っているので、あと数時間の命でしょう。
どうしたものか。。
思案の末、ハートの選択に従いました。
すぐに死ぬのはわかった上で、私にできるだけのことをすることにしました。すなわち、私の手のひらに温かく包まれた安心できる状態で、天へ帰らせてあげようと思ったのです。
そう思って、何時間もずっと手の中でひたすら温めていました。
そうしたらね、、、ハハハ、
私の手のヒーリングが効いちゃったの。(^_^) だんだん元気になっちゃって。
小さな心臓の鼓動がどんどん強くなってきたんです。
「あらまあ!」と、びっくりしました。
試しに砂糖水を作って飲ませてみたら、ゴクゴク飲むではありませんか!
しかも、まだ鳴くこともできない幼さなのですが、大きく口だけは開いて、「ご飯ちょうだい」と催促するではありませんか!
そして、立派なウンチもするではありませんか! (^_^)
こうなったら行けるところまでと、覚悟を決めました。私には完璧な世話はできませんが、できるだけのことをします。でも、私自身が本来やるべきことを阻害しない程度、私の生活を犠牲にしない程度、私が無理を重ねない程度、その範囲内でです。その中で、最善を尽くしたい。
まず、貼るカイロを温め、保温とクッションを兼ねたエアーパッキンを敷いたタッパーの中に、掃除がしやすいようにティッシュを敷き詰めた巣を作りました。
それから、ペットエコに行って、卵と青菜の練り餌を買ってきました。
作って食べさせたら、喜んでよく食べます。
元気になってくれるのでしょうか。。
これからしばらくの間、こんな感じで私にできるだけの世話をして、もし生き延びて飛べるようになる日が来たら、自然に帰したいと思います。
まあ、、いつまで命をもたせてあげることができるか、私には自信がないんですけどね。(..;)
じっちゃんに任せます。本人(の魂)が生き延びたければ生き延びるでしょうし、天に帰りたければ帰るでしょう。
それにしても、ねえ、、
何で、この子が私のもとに来たの??
私が引き寄せたわけですが、その理由は?
まさか、地球での息子を自立させた私が、代わりにシリウスでの息子を呼び寄せたのと同様に、空になった巣が寂しくて、世話する相手を具現化したのではないでしょうねえ?? ハハハ
顕在意識で望んだつもりは全然ないのですが。
あ、でも、今日は母の日だ!! 下の家族からは、花束と手紙をもらったのですが。。まさか、これが上の家族からの母の日のプレゼントではないでしょうね?! ちっちゃな子ども(゚o゚; ジョーダンです。(^_^)
何にせよ、しばらくの間、「おちびちゃん、なるでこママのもとで暮らしましょう!(^_^)」です。名前は、そうですね、”ちいちゃん”にでもしますか。
さて、、何故、この記事を書いているかというと。
お伝えしたいことがあります。
それは、私は「感情に囚われない」と決めたということ。今回。
もし、この子がたとえすぐに死んだとしても、私は泣いたりしません。
昔の私なら、自分の力不足を責め、罪悪感に囚われて、大泣きするのは間違いないのですが。(..;)
今の私は泣きません。
できるだけのことをする。この子が生きている間は、世話をすることを楽しむ。
その結果、すぐに天に帰っていっても、私は喜んでその魂を見送ります。
それができるようになった。
こういう自分の気持ちの強さ、このような”動じなさ”、今、やれることを楽しむ、結果ではなく過程を楽しむという選択。
それが身についてきたことが、今の私にははっきりとわかる。落ち着いてセンターに留まっている自分がちょっと嬉しい。
進歩ですよねえ。。
アシュタール通信のお陰ですねえ。(^_^) m(_ _)m
(翌朝: ちいちゃん、持ち直したかと思ったのだけれど。。今朝はホッカイロのぽかぽかの中で生きて動いていたけれど、ごはんを欲しがらなくて。もう少ししたら、ごはんをあげようと思っていたら、、今見たら、逝ってしまっていました。「泣かない」と決めてたけれど、やっぱり無理です。(T.T) 「自分を責めない」って決めてたけれど、やっぱり無理です。(T.T)「何が悪かったのだろう」「やり方のどこがまずかったのだろう」「私が、何に気付いてあげられなかったのだろう」と、やっぱり自分の責任のように感じて、、、、泣いています。「ちいちゃん、起きて!」呼びかけずにはいられません。でも、それが自然ですよね。それにしても、ああ、、何というレッスンだったのでしょう。ちいちゃんは、私にこのレッスンを与えに来た、そうとしか考えられません。わずか一晩の滞在でした。家族で、名前を付けて可愛がり始めた矢先でした。でも、私の忙しさを知っていて、迷惑をかけないようにすぐに帰ってしまったのかな。木からも遠い、家の屋根からも遠い、芝生のまん真ん中にころっと落ちていたちいちゃん。エンジェルだったのでしょうか。この家の庭では、よく不思議なものが見えます。不思議なことが起こります。この記事には続きがあります。)